ペイアウトのブログ

大学3年生の感じたこと。僕のために残します。

教員を目指す理由

実は僕、教員を目指している。

 

7月に試験があり、絶賛勉強中だ。

 

僕が教員になりたいと思う理由は、

「憧れ」「目指している教師像」「楽しいこと」

様々であるが、その中でも一つ、ここに書き留めておきたいことがある。

 

「僕の中の悪を正してくれる」ということ。

 

教師である以上、正しいこと、正しいと思われることをやる。

教師たるもの、完璧でいるべきだ。

 

一般的にはそう思われているだろう。

 

教師がそういう人間でないと生徒を叱ることを正当化できない。

自分ができていないことをどうして他人に言えよう。

 

では、世の中の教師は全員正しい人間と言えるのだろうか。

 

ここ最近では不祥事が目立ち、イメージは落ちた。

これまで出会ってきた先生にはそうとは言えない人も思い浮かぶ。

 

教師といえど、人間。正しくない部分は誰にだってある。

 

では、教師とはどういう人間がなるべきなのか。

 

 

僕が思うに、正しくいようとすることが教師なのだ。

 

教師でいると、正しくいることが求められる。

自分の中で正しくないと思っている部分、

僕が僕の中で嫌いな部分、

周りから見たら嫌だろうなと思う言行。

 

教師たるもの、そこに向き合わなければいけない。

治さなくてもいいや、ではなく、治さなきゃ、になる。

 

 

大人になってから、人の嫌な部分が見えるようになった。

 

子どもの頃はなんとなく感じていたものが、ハッキリと分かるようになってきた。

人の嫌なところ。もちろん人それぞれ。

当人は感じていないかもしれない。周りの人間に嫌悪感を抱かれていることを。

 

僕は僕の中の嫌な部分を変えたい。

 

ふとした時、余裕がない時、ストレスがかかっているとき、ほど

嫌な部分が露呈しやすいものだ。

 

 

それを変えなければいけない環境、つまり教師こそ、僕のなりたい姿。

人に伝えるとき

子ども、年下の兄弟、生徒

自分より年下の、経験の浅い人に。

 

僕が何かを伝えるとき、

 

相手の立場に立ってモノを言うことが重要だと感じている。

 

僕が伝えたい内容、大切なこと、身につけてほしいこと。

 

それが重要であればあるほど、相手の立場に立っていたい。

 

 

子どもの頃、親、教師から

物事の考え方を教えられたとき、いや、言い伝えられたとき、

何を言いたいのか、小さい頭なりに理解しようとしていた。

要点はつかめる。

最初の方は。

 

話者がヒートアップしていくうちに、様々な方向へと話がとっ散らかって、

重要なことは何か、身につけるべきことは何か、

最終的に分からなくなってしまうことがあった。

とっくに集中力は切れて、気づけば話は右耳から左耳へ。

 

これは子どもだから集中力がないという話ではなく、

子どもの集中力に合わせていない話者が悪いのだと思う。

 

大人になった今、まだ小さい弟、生徒に語りたい場面ができるようになった。

 

僕の経験から得た、

気を付けてほしいこと、

こう考えてはいけないよってこと、

こう考えた方が良いよってこと。

 

伝えるときは、まず子どもの立場に立つ。

話は長すぎず、端的に。

言っても分からない話しても仕方ないよ。

受動的な子がほとんど。

 

その前提を常に頭に入れておきたい。

伝えることが目的。

話すことに気持ちよくなってたって意味なんかないじゃん。

 

 

 

 

 

やってやろうぜ

一日の始まり、

何かを始めるとき、

何かが始まるとき、

 

どのような感情をもつだろうか?

 

 

「やってやろうぜ」

 

僕は、そんな気持ちで始める。

 

 

これは、投げやりになっているわけではなく、

受動的になっているわけでもない。

仕方ないからやってあげる、そんな意味でもない。

 

 

昨日までの自分を超すようなこと、

自分にとって必要なこと、意味のあること、

人生において意味があると思えること、

今日も気合を入れて、

「やってやろうぜ」

 

そんな意味でこの言葉を心の中で唱える。

 

今日も、しでかしてやろうぜ。

夜ベッドで横になった時、最高な一日だったって言ってやろうぜ。

 

 

どうしてそう思えるのか。

 

全力になれること、やりたいこと、

それは当然。

面倒くさいこと、やりたくないこと。

それも全て、将来、必ずどこかで役に立つ。

僕はそう考えているからだ。

 

スティーブ・ジョブズの卒業式スピーチは有名だが、

点と点はどこで繋がるかわからないが、必ずどこかで繋がる。

そう信じている。

これまでもそうだった。

あのとき、面倒だと思ってやらなかったこと。

やっていれば、いま役に立っているのに。って。

 

「どうせ~」

「つまんないし」

「何の意味があんの」

 

 

僕はそんなこと思わない。

今日も一日、気分上げて、

「やってやろうぜ」

 

おれら

今回は、俺とお前らの為だけに書きます。

 

関係ない人、今回は読まなくていいよ。

僕のために残すブログなんだからそういうのもアリでしょう。

 

俺らならさ、なんだってできるよ。

 

本当にそう思うんだよ。

 

何だってできる。

 

いろんなこと挑戦して、かまし続けていようぜ。

 

 

だってさ、これまでもやってきただろ?

 

無謀な冒険、週6の野球、大学受験。

 

おれら、やってきてんだよ。

 

失敗してもさ、

 

「おもろい」

 

この一言で片づけて、みんなで笑えればいいじゃん。

 

笑い話になれば、それだけで儲けもんだよ。

 

 

 

おれらは、こんなことでくたばってるタマじゃねえよ。

 

おれらならいつだってかませるよ。

 

いつまでもかまし続けていようよ。

やる気と目標

目標を立てていますか?

 

目標が明確に定まっていると、

 

やる気がない、モチベーションがない、って。

 

僕にそんな状態が訪れることは絶対にない。

 

目標があるとき、僕は必ず計画を立てる。

 

いつまでに目標を達成する?

目標達成のために何が必要

何をどれだけ成し遂げなければいけない?

 

これらを決定すると、

 

1日でどれだけのタスクを処理しなければいけないのか

 

それが自ずと明確になってくる。

それを処理しなければ目標を達成できないのだから。

 

ほら、やる気とか関係ないでしょ。

 

 「やらなきゃ」

        に変わる。

 

次の日に今日さぼった分のタスクが課されるのだから。

 

さあ今日も、目標に向かって一歩前進だ。

頑張ろうぜ。

 

 

塞翁が馬

って知ってる?

 

正式には、

 

人間万事塞翁が馬

 

 

中国前漢時代の思想書淮南子」が出典だそう。

 

昔、中国の北方の塞に住んでいた塞翁(老人)が飼っていた馬が、ある日、逃げてしまいました。人々が慰めに行くと、塞翁は「これは幸いになるだろう」と言いました。
数ヵ月後、逃げた馬は立派な駿馬(しゅんめ)を連れて帰ってきたので、人々がお祝いに行くと、今度は「これは災いになるだろう」と言いました。
塞翁の息子が駿馬に乗っていると、落馬して足の骨を折ってしまいました。人々がお見舞いに行くと、「これは幸いになるだろう」と言いました。
一年後、隣国との戦乱が起こり、若者たちはほとんど戦死しましたが、塞翁の息子は足を骨折していたため、兵役を免れることができ、無事に済みました。

 

これは、僕が常に心の中に置いている言葉の一つだ。

 

要するに、

何が起きようと吉か凶かは先にならないと分からないという意味。

 

一般的には、

悪いことが起きても、幸福に変わるかもしれないよね。

          そのおかげで良いことが起きるかもしれないよね。

良いことがあっても、不幸に変わるかもしれないよね。

          そのせいで悪いことが起きるかもしれないよね。って。

 

そう解釈するんだろう。

 

 

だが、僕はそこじゃないと思う。

解釈はそうかもしれないけど、そこじゃないんだって。

 

おじいさんは、

馬がいなくなろうとも、

馬が増えようとも、

自分の子どもが足を折ろうとも、

 

 

常に目の前のことを頑張っていたんだよ。

 

 

置かれた環境でベストを尽くすということ。

それこそがこの言葉の本当の意味。

僕はそう思っている。

 

だから今日も、僕はやるべきことをやる。

先のことはわからないけれど。

「とりあえず」やってみよう

僕は少し前からこの言葉を口にするようになりました。

 

面倒くさい、怠惰だ。

やりたくない。つまんない。

 

専ら面倒くさがりな僕は、何事にも後ろ向きな気分になるときがあった。

やらなければいけないことを後回しに。

自分の中で言い訳を作って甘やかす。

それで良いと思ってた。

「だって昨日は頑張ったじゃん。今日ぐらい良いよね。」

常套句だった。逃げるのは簡単だった。楽だったから。

 

ベットに横になり時間が溶ける。

おすすめに出てきた動画を見ながら。

少し経つとインスタグラム、更新されたストーリーを見る。

ツイッターの画面が開かれている。タイムラインを流す。

 

時間は夕方6時。

ご飯を食べたら、勉強をしよう。あと3時間はできるから。

 

思っただけで、気づくと携帯を触っている。

30分は過ぎている。

この動画を見終わったらやろう。絶対に。

あれ、もう22時。

ああ、もう今日はいいや。明日やろう。

 

この繰り返しだった。

夜になると、今日何をしていたか覚えていない。

今日何してたっけ。

数日頑張ったら、こんな日が来る。

そんな日々だった。

 

「とりあえずやってみよう」

 

この言葉に出会った。

友人がよく口にしていた。

ぼくを前向きにしてくれた。

 

「昨日は頑張ったから。」

「今日ぐらいは。」

 

「違う。今日やるんだ。」

 

今日やらないでどうする。

おれの人生だろ。

周りは関係ない。

入ってくる情報に埋もれること、

頭の中が情報でいっぱいになることが気持ち良い。

それがスマホだが、意味があるか?

 

お前から情報をつかめよ。

お前からやってみろよ。

お前の人生なんだから。

 

「とりあえずやってみよう。」